私は、加美町(旧中新田町)の田園風景が広がるところで、5人兄弟の長兄として生まれ育ちました。その家といったら、自分の部屋があるわけでもなく、大雨が降ると傘を差しながら食事をするような住まいでした(今となっては住まいとよべるものか??)。
小さい頃から、家への憧れはあったのだと思います。小学6年生の時、材料をかき集めて自分のベッドを作り、中学に入ってからは机を作りました。引き出し付きの本格的なものです。そんな少年時代を送っていましたが、我が家は祖父が残した借金を機に生活は一気に苦しくなりました。中学を出てからの進学はままならず、大工見習いとして親方と寝食を共にする生活に入るため家を出ました。
15才の小僧が鞄ひとつ持って、お袋達と別れる時の気持ちは、今も忘れられないですね。
盆と正月に、たいしたことのない土産を楽しみしている妹や弟達、そして相変わらずの我が家。早く一人前にならなければと、一生懸命働きましたね。
17才で家を初めて建て、22才で現場監督者に就きました。やっと加美町の家を建て替えることができた時は、25才になっていました。
それでも公庫借り入れで36坪の小さな平屋です。この36坪をいかに広く、豪華に見せるかに知恵を絞った結果、玄関前に広がる10帖もの坪庭を作ることで、明るくゆったりとした見せ場が出来上がりました。
自分ではとても満足していたのですが、当時は無駄なものと変な目で見られました。それでも私は、住宅にはその家の顔となるものが大事と考え、デザイン性、色の持つ個性をうまく引き出す家づくりをしてきたつもりです。そういった家は価格の割にはグレードの高い物となります。そして、その満足度は住み手にとって心地よさを生むと思います。
現在も100%以上の満足をしていただきたく、何度も現場に足を運び、あれこれと手をかけてきます。喜んでいただけるのが何よりも励みとなり、生き甲斐となっているからです(経理担当者からは『社長が行くと現場が赤字になります』と言われますが……)。
耐久性があり、性能も良く、きれいに仕上がった家を建てるのは当たり前で、自信もあります。
しかし、平成7年に現在の事務所兼住まいを建て、幼い子供達と暮らしだしそれだけでは駄目なことに気づきました。
シックハウス症候群とヒートショックという言葉は世に広まりつつありましたが、当時の私は人ごとで認識も甘かったのです。お金もなかったので、ホルムアルデヒド対策や高気密・高断熱仕様を取り入れなかった結果、幼い子供は軽いアトピー性皮膚炎、目もチカチカする毎日。
冬場は、暖房費が掛かる割には寒く、部屋に温度差がある住まいです。女房は赤ん坊をお風呂に入れるたびに大変な思いをしていました。女房に「子供のことを考えた家をつくってよ!」と言われ、ムッとした反面、病気になり、寒さに震えていては良い家とは言えないと気づきました。
それからは、「体に優しく、心地よい家」づくり一本です。価格が高くて良いものをあきらめるのではなく、コストパフォーマンスを見直し、日々進歩する技術や考え方に接し、より良いものを取捨選択する気持ちでいます。
責任のある仕事をし、耐えず探求心を持って、大好きな家づくりを行っていきます。
建築業界に足を踏み入れてから50年。若造だった私に家を任せてくれた施主様、いろいろ教えてくださった諸先輩方、力添えをしてくれた方々に深く感謝しています。ビッグな人間にはなれませんが、堅実で裏切らない人生を送り、良いスタッフにも恵まれています。
お客さまの要望をああでもない、こうでもないと言いながらプランを作成し、喜んでもらえることが本当に嬉しいですね。毎晩の楽しみの一杯もとてもおいしいものとなります。
これからもお客さまに喜んでもらえ、ニーズに合った体に優しい、心地よい家をつくり続けたいと思っています。